究極のコピーとしての人間の思考とAIについて

今現在AIができることと言えば、人間の発する言葉を大規模な言語モデルが理解できるように解析、分解することや物体認識等と言われます。ただこれは、原理的には究極のコピー、つまり人間の感情や思考のコピーができるのではないか、とも考えたりもします。

今回の話はあくまでも「おとぎ話」です。

人間は、生まれ持った素質や気質といったものと、育ちや経験といったものから、現在の性格が決定されているのかもしれません。

では、それらの情報、つまり、本人が経験した行動を、ウェアブルの小型デバイスが全て収集し、そこで何を見たのか、何を聞いたのか、そして、その人物はどのような行動をしたのか、それらを分析し、その人物との社会との関わり合いを分析することによって、ある人物と非常に似たような人物をプログラム上で作ることができるかもしれません。

とはいえ、それはあくまでも社会との関わりという意味であって、その個人の特有の持つ性格や、またはひらめきやセンスといったものはまた別のものと言えるでしょう。

もしかすると、「ひらめき」「センス」それは単に性格上のランダムな部分なのかもしれませんし、 そのランダムの発生確率や分布という意味なのかもしれませんが。

また、AIによって、なぜひらめきやAIセンスといったものが生まれるかを分析していくと、そこには何らかの精神的な事象と事象のリンクの関係性が解き明かされることができるのかもしれません。
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実際のところ、その人物が生まれてから成人になるまで、一体どれだけのデータ量を人間は受けとっているのか、しかも人間はデータを適宜忘却しながら、そして、時には強い印象を受けた記憶は何年たっても忘れることがなく記録してゆきますし、逆に、どうでもいい記憶は瞬時に忘却してゆきます。

そんなデータの強弱といったものを、どのように判断していくのか、そして人間の曖昧さや、そして人間は「いつか必ず存在しなくなる」、儚さ、といった人間が避けて通ることのできない本能的な部分をも顧慮すれば、「プログラムとしての人格」ができるのもしれません。

今回描いた事はあくまでも理論としては成り立つのではないか、ということであって、その人物の行動を記録するためのデバイス、それらのバッテリーやそのストレージが現実的に世の中に出てくるのははるかに先でしょうし、そもそも、そんな試みは「人間が生殖以外で人間を作る」ことと類似した論理上の極めて危険な行為かもしれません。

とはいえ、今の技術を進化させていくことによって、人間をコピーすることのできる可能性は、考えるだけで楽しいことかもしれません。

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